看取り士日記(289)~希望の先の慈愛の世界に~
平成という時代の最後の年明けの頃に、一本の電話を頂く。
「母を家に連れて帰りたい。お手伝いをお願いします」
初回訪問は6人部屋の病室だった。ご家族の居場所もなく、お母様の土のような顔色を忘れられずに病院を後にする。
2日後、住み馴れたご自宅に戻られたお母様のお顔が、穏やかなピンク色に戻った。目を開けて、ご挨拶にうなずいてくださる。
「母を自宅で看取りたい」息子さんのこの決心と覚悟が、家族のみんなを動かし、ご家族の暮らしが動き始める。
朝、顔を洗いカーテンを開け、光を感じる。もう食べることはできなくても、共に食事の時間を過ごす。楽しかったお話をたくさん。ありがとうをたくさん。
夜、闇を、星を、月を感じ、床に就く。お部屋の中にはピアノ曲の童謡。「ゆりかごの歌」が流れている。
「ゆりかごの歌を/カナリヤが歌うよ/ねんねこ/ねんねこ/ねんねこよ」
自分が眠った時、呼吸が止まってしまうのではないか。不安で目を離すことができない息子さんは、休まれる時はお母様のベッドに添い寝をして過ごされている。
その姿は幼い頃、なかなか寝つかない息子をやさしくやさしく、寝かしつけているお母様の姿に重なって視える。お母様との愛おしい時間を抱きしめられている。
暮らしが始まって10日。その時はいつ……。あと何日……。
どうしても引き算をしてしまう心。
お母様は「今日一日が無事に過ごせて良かったよ、ありがとう」と一日、一日を足していくことの喜びを、身をもって教えてくださる。
そして翌日、夜半過ぎ。祈りの折り鶴は大きな鶴となって静かに静かに旅立っていかれた。
ご家族が少しうとうととされたのを見届け、安心されるかのように……。
母の愛は、いつも、いつまでも子供たちに降り注いでいる。
出産をすることで女性はいのちに出遇う。
男性が、自ら、「看取り」でいのちに気づいていける時代に、社会に一歩ずつ変わっていく。
希望と慈愛の世界を教えてくださった皆様に心から感謝 合掌
担当看取り士 岡 亜佐子